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樋口裕子

  • 名前:樋口裕子
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オンライン小説&出版本紹介のHP「ハレルヤ-樋口裕子-」のブログ、夢日記や短編小説など書いていく予定です。(コメントの欄に業者の方の宣伝はご遠慮願います)
 改訂版『ママの店』



☆☆―パンが泣いていた―☆☆

・・・前回の続き

柔らかなウエーブのかかった
栗色の長い髪に鳶色の目、
美人で温かい人柄のママがいるから
店は繁盛しているのだが、
今日は珍しく客は私だけのようだ。
ねえ、トランプやろうよと言いながら、
ママが嬉しそうにいそいそとトランプを持ってきて、
楕円形のテーブルを挟んだ向かい側のソファーに
腰を下ろした。ママご自慢のトランプは
普通の三倍の大きさで、
一人でシャッフルするのは大変だ。
一緒にシャッフルしてもらおうと思い
半分をママに渡したとき、
外から叫び声が聞こえてきた。
慌てて飛んでいってドアを開けて外をのぞき、
声のした方を見ると、道路一つ隔てた左側、
三十メートルほど先にある総合病院の辺りで、
黒い人だかりが出来ている。
何かあったみたいだなと呟くと、
私の横からヒョイと顔を出したママが、
嫌ねえ、事故かしらと不安そうな声で言った。
やがてその総合病院の方向から
黒い革ジャンを着た若い男が走ってきて
店の前までくると、
大変だ、子供が落ちた!と叫びながら
通り過ぎようとしたので、
子供は死んだの?と声をかけたら、
男はちょっと足を止めて振り向き、肩で息をしながら、
たぶん、と短く答えただけで走り去った。
男は随分慌ててはいたが、あの顔つきからすると、
ただの野次馬に違いない。
私も現場を見にいきたい衝動に駆られてママを見た。
ママは私の考えていることがわかったらしく
一瞬顔をしかめたが、黙って私と一緒に駆け出した。
やっと辿り着いたものの、
病院の表玄関あたりにガッシリ人垣が出来ている。
「人が多すぎて、これじゃ中がどうなっているのか
全然わからないよ」
つま先だって何とかのぞこうと頑張っているとき、
誰かが退いて丁度二人分の隙間が出来た。
素早く滑り込んだ瞬間、
私の目の中に飛び込んで来たものは、
階段の側で頭から血を流して倒れている
子供の姿だった。それは小学生くらいの男の子で、
手も足も曲がるはずのない方向に曲がっている。
医者と看護師が必死の形相で
その子の頭をガーゼの塊で押さえているが、
みるみるうちに白いガーゼが血の色に変わっていく。
医者がタンカはまだか!と大声で叫んだとき、
ママが私の腕を引っ張った。      
「ねえ、もう帰りましょう」
店に戻りソファーに座って一息ついた後、
ママが青い顔で、あの子可哀相だったねと言い、
テーブルに両肘をついて掌(てのひら)で顔を覆った。
「まいったなあ、見にいかなきゃ良かったよ」
事故現場を見にいきたいと思うなんて
不謹慎にもほどがある。
大変なショックを受けたらしいママの様子を見ると、
連れ出したことを後悔した。
それに実は私も、子供の頭から流れ出た血で
ガーゼが真っ赤に変わっていった情景が忘れられず、
胸がムカムカしてたまらなかったのだ。
気分直しにトランプの続きでも・・・と言いかけたが、
とてもそんな気になれなくて、
トランプを机の上に置いたまま
ぼんやりとドアの方を眺めていた。
やがて白衣を着た顔見知りの男性が
店の前までやって来たのだが、
何故か中には入らず、ドアの横の壁にもたれて、
くわえたタバコにライターで火をつけ始めた。
彼は今さっき子供が落ちた総合病院の小児科の先生だ。
「あれ?何で中に入って来ないんだろう」
「あら、本当ね・・・」
ママも不思議そうな顔で彼を見ている。
「入るように言ってくるよ」
私は店の外に出て彼の側にいった。
「先生、どうして中に入らないの?」
彼は病院の方を見ながら目を細め、
煙をフーッと吐き出した。
「待合室の窓から落ちたらしいな」
さっき見たあの子供のことだ。
「あの子、助かるかなあ・・・」
「いや、ダメだろう」
彼は目線を下に移し、
まだ長く残っている煙草を捨てて
靴底で火を消した。
「先生はいかなくていいの?」
「私は内科だから関係がない。あれは外科の分野だ」
そんな・・・私は絶句した。
病院に勤務しているときの彼の様子が目に浮かぶ。
彼は医者なのだがパンを焼く趣味があり、
これがまた本職の腕前で、
時々子供に人気のあるキャラクターの顔をパンにして
病棟の子供達に配っていた。
そして毎日外来の診療が終わるとすぐに小児病棟にいき、
日が暮れるまで子供達と遊んでやっていたのだ。
とても優しい先生だと思っていた。
それだけに、私は内科だから関係がないと言った
彼の言葉が信じられなかったのだ。
外科であろうが内科であろうが落ちたのは子供、
小児科の先生が関係ないではすまされないだろうと、
言いかけた言葉を私は飲み込んだ。
俯いた彼の目から涙がポタポタ落ちている。
大病院の裏の事情なんて知らないし、
また知りたくもないけれど、
ひょっとしたら彼にとっては
あまり居心地の良い職場ではなかったのかも知れない。
いつも子供達と一緒にいたのは
子供達が可哀相だからではなく、
多分自分自身が寂しかったからなのだ。
少しずつ彼に関する記憶が蘇ってくる。
そうだ、思い出した。もうずっと前のことだけど、
彼は病院の屋上から飛び降り自殺を図ったのだ。
あの日の夕方、屋上に上がった彼は
一人寂しく夕焼けの空を見ていた。
そしていきなりダイブしたのだ。
オレンジ色に染められた白衣の胸がはだけ、
まるで大きな鳥が翼を広げたように見えた。
彼はきっと美しい夕日に向かって飛んでいく
夢を見ていたに違いない。
気持ち良さそうな微笑みを浮かべたまま、
彼は真っ直ぐ地面に向かって落ちていった。
そうだ、彼はもう生きてはいない人なのだ。
「ねえ、早くトランプやろうよ」
ママがドアから顔を出した。
二本目の煙草に火をつけた彼を残して店の中に戻ると、
テーブルの上にはトランプではなく
男の子の顔をしたパンと
女の子の顔をしたパンが置いてあり、
その二つのパンが顔をクシャクシャに歪めて泣いていた。

〜つづく

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2008.02.12. (17:54) 小説 文学 / TRACKBACK(-) / COMMENT(-) /
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